宇喜多秀家をご存じだろうか。
歴史好きなら知っていると思うが、そうでない方は知っている方は少ないであろう。
秀吉に気に入られ、27歳の若さで5大老になった他に類を見ない逸材だ。
ちなみに他の4人は徳川家康(57歳)前田利家(61歳)毛利輝元(46歳)上杉景勝(44歳)である事から、いかに秀家が秀吉に気に入られていたかわかるだろう。
大老とは簡単にいうと征夷大将軍の次の最高階級であり今でいう閣僚のようなもの。
27歳で閣僚・・・聞いたことがない。
しかし、若くして出世した秀家は「お坊ちゃん大名」でもあり、散財で宇喜多家を窮地に追いやり、領民に重税を課したことで家臣に反発されている。
その後秀家は関ケ原の戦いで敗れ、逃亡生活を送るが、最終的に八丈島に流刑となる(34歳)。
宇喜多家は八丈島で生活をし、浮田や喜田など苗字を変え20ほどの分家がしっかりと繁栄していた。
明治に入り同じ5大老であった前田家の計らいで許された宇喜多家は(この時1部は八丈島に留まった)、板橋区の加賀前田屋敷に住まわせてもらったという。
宇喜多秀家の妻豪姫は前田利家の子であり、前田家と宇喜多家は親戚であったことから、八丈島時代も2年に1度援助をし、明治に加賀屋敷に住まわせてからは生活費をすべて負担したという。
宇喜多(浮田)家名家具合もわかると同時に、前田家の義理堅さもわかるエピソードである。
宇喜多秀家供養塔は、子孫が建てたもの。
移転をくりかえしたものの、現在東光寺に設置されている。